1月29日、一時は体調不良のため出席が危ぶまれた荒木田さんは元気なお姿で、登場して時にユーモアも織り交ぜながら、「瀬田貞二」について語ってくださいました。もしかしたら、体調も万全ではなかったのかもしれませんが、とても楽しい一時間半でした。
 初めて聞く瀬田貞二氏の声は、とても若々しくちょっと早口で、私の想像してたとおりでした。「幼い子の文学」は、しゃべり言葉をそにまま本にしたようなところがあったので、読んでいると、聞いたこともないのに瀬田さんの声が聞こえてきたのです。その声によく似ていました。

その音源は、1977年の11月、吉田新一先生が瀬田さんのお宅にお邪魔して、インタビューしたもの、瀬田氏61才の時だそうです。児童文学世界という雑誌の創刊号に載せるためのインタビューだったそうですが、長らくそのテープは行方不明でした。でも最近、吉田先生が家の整理をしていた時、偶然見つけたそうです。自宅ですから、縁側の向こうから聞こえる、焼き芋屋さんの呼ばわる声や、奥様の「お茶どうぞ」の声が入っていて、リラックスした様子が伺えてとても興味深かったです。講演はこの音源を細かく区切りながら合間合間に荒木田さんがコメントを挟むというやり方で進みました。吉田先生のインタビューでは文京区本郷切通し坂町での子ども時代の話 、瀬田先生がどうやって本に親しんでいったかなど。瀬田先生にとってこの切り通し坂町という町全体が教育の場であったと。そこで、荒木田さんは今の本郷切通し町を歩いてみたそうです。もう90年近く前なので、地形も建物もだいぶ変わっているので瀬田先生の生家を特定することはできなかったそうなのですが、「子どもの本のよあけ」のP314に三輪車に乗った4才くらいの瀬田先生の写真があるのですがこの写真のバックとそっくりな場所があったそうです。だから生家はきっとその近くなんだろうということでした。この話を聞いて、宮部みゆきの「平成お徒歩日記」を思い出しました。すごいな荒木田さん。
もう一つの音源は、1975年の9月から10月、「ナルニア国物語」、「指輪物語」と立て続けに翻訳され、「落穂ひろい」連載が完結された59歳の時、初めての海外旅行をされた時のものです。
福音館がお疲れ様の意味を込めて、企画し、当時福音館にいらした斎藤惇夫さんらが計画をたてたそうです。どういう風に募集したか聞き取れませんでしたが、20名ばかりの応募者(幼稚園の先生など)とともに、欧州児童文学の旅、みたいな感じで、その案内役みたいな役目を瀬田先生がしたそうです。瀬田先生は一度も行ったことない所でも、光吉夏弥さんからいろいろ聞いていてまるで何度も来たようにその地形を把握されていたそうです。それで、行くところ行くところ、バスの中などで講義が始まるって感じだったのでしょうか。その時の参加者の方がそれをテープにとって持っていてくださったそうです。ドイツのハーメルンからカッセルに向かうバスの中の話です。

このツアーが終わって他の人は日本に帰ったけれども、瀬田先生は菅原さんというスタッフと残って、コッツウオルズへ、当時フランスにいた堀内誠一さんと合流して行ったそうです。そして同じ時期安野光雅さんも偶然ヨーロッパにいらして、連絡したらうまくつながって会う段取りになった。安野さんは嬉しくて、会ったら、これも話そうあれも話そうと心づもりしていたのに、会ったら、瀬田先生がたくさんしゃべって、とうとう用意した話を一つもできなかったそうです。安野さんてかわいいなと思っちゃいました。
「絵本論」に出てくる、フィッシャーの教科書に出会って感激したエピソードはこの欧州旅行の時のものだったのですね。その教科書は私も見せてもらったことがありますが、本当に素敵で、何代もの子どもが大事に使うそうです。日本にもそんな教科書が合ったらいいのにと思いました。なんだか、散漫でまとまりがないし、ところどころ、聞き違いもあるかもしれませんが、どうぞお許しください。荒木田さんの労作「子どもの本のよあけ」はこれから、ゆっくり楽しもうと思います。