ぶなの木文庫

2012年10月

 今日は、M中学校のお話会があった。私は1年生のクラスと、3年生のクラスの2回。
プログラムは

1、お話を知らなかった若者   子どもに語るアイルランドの昔話 こぐま社(ストーリーテリング)

2、アディ・ニハァスの英雄    「山の上の火」 ク―ランダー 岩波書店(朗読)

1年生のクラスは前回大騒ぎする子がいて大変だったので、心配していたが、最初から集中して聞いてくれた。
「お話を知らなかった若者」はどんどんお話に引き込まれていくのがわかった。こんなに私の顔をまじまじと見てくれたのは初めてじゃないかな。今までは、聞いているんだけども、下向いたり、目をつむっていたり、する子が多かったから、ちょっとびっくりした。

「アディ・二ハスの英雄」はヒョウが出てくるあたりから、後ろの方で女の子がにやにや笑いだしてた。でも、ほとんどの子が、真面目な顔で聞いていた。なんでだろ?う~ん!笑わないぜ!中学生!

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今日は私は聞く日。なんて気が楽で、楽しいんだろ。それなのに、事故で道路が渋滞で遅刻!駅から一回も止まらないで走り続けた結果、4分の遅刻で、みんな待っててくださった!ありがたや!

    本日のプログラム

1、三びきの子ブタ    イギリスとアイルランドの昔話(福音館)

2、かにむかし      絵本「かにむかし」(岩波書店)より

3、こびととくつや    子どもに語るグリムの昔話6(こぐま社)

4、ラプンツェル     子どもが語るグリムの昔話3(こぐま社)

5、赤ずきん       子どもに語るグリムの昔話5(こぐま社)

今回のH先生のコメントで一番心に残ったのは、

「つくった声でなく、イメージして出す声が大事!演じてはだめ。」ということ。

先生が、実際にある一節を語ってくださり、その違いを分かりやすく教えてくださった。確かに、演じてはいないけれど、そのキャラがはっきりわかる。それは、いかに自分がイメージしているかに,かかっている。

ああ、でも、まだ私には、「イメージすることと、演じること」の違いがわからない。私はつい、演じてしまいそう。でもでも、問題はいかにイメージを深めるかだ。そのためには、本もたくさん読んで、いろんな美しいものを見て、感じて、体験していくこと。そうやってイメージできる自分を作っていくこと。

帰りの道すがら、後ろの方で、女子高生が「あ~!明日、物理だよ、やだなあ!」って言う声が聞こえた。期末試験の最中なのかな、急に懐かしい感覚につつまれた。
あのころは、勉強だけしてれば良かった。今は勉強してるとみんなに用を頼まれて、集中できない!ああ!まったくもう!ってなっちゃう。あの頃は、そのありがたさが分からなかったんだよなあ~。もったいない。今のおばちゃんの心であの頃にもどったら、猛勉強するのにな。

なんてこと、考えながら、帰ってきました。

今夜のごはん:茄子とひき肉のエスニック炒め(ナンプラー使っただけなんだけどね)
         人参とたらこの友禅煮(旦那の好物)
         サバの文化干し
         わかめと豆腐と玉ねぎの味噌汁(うちは、いつも玉ねぎは欠かせない)
       レンコンのサラダ(レンコンの薄切りをさっとゆでてコールスロードレであえる)
        きゅうりのぬか味噌漬け

昨日は「N宅の会」でした。

朗読したのは「九ばんめの波」・・・町かどのジムファージョン/文、E・アーディゾーニ/絵童話館出版
 「月がほしいと王女さまが泣いた」・・・ムギと王さまファージョン/作、石井桃子/訳 岩波書店

二つとも奇想天外なものがたり、今風にいえば、(ぶっとんでる話)、朗読している間、くすくす笑いが出る。こういう話は心を開放させるなあ。

「九ばんめの波」はジムらしい、ほのぼの感が楽しくて、ああやっぱりジムの世界はいいなあと思う。

「月がほしいと~」は、ナンセンスいっぱいで楽しい中に、ちょっと毒があって、風刺がきいている。

人々が訳もわからず、付和雷同していく様を、スピード感あふれる文章で描いている。


「だれも、なぜ夜がまちがっているのか、考えてみる者はいませんでした。みんながそういってるのだから、それでいいのです。」「かれらは、みなかたい決心をかためていました。けれども、じぶんたちが、なんのことでさわいでいるのか、わかっているものは、ひとりもいませんでした。」

聞いていて、先日の中国での若者の暴動が思い浮かんだ、という方もいた。日本人もマスコミに踊らされ、自分の頭でものを考えないで、人の言葉に踊らされている人のなんと多いことか。

先日読んだ小川洋子さんの「物語の役割」ちくまプリマー新書の中にとても心惹かれるエピソードが書いてありました。
「博士の愛した数式」のイスラエル版の契約が、ヒズボラがイスラエル兵士二人を拉致したことに端を発するイスラエルのレバノン侵攻のために遅れていたのだが、停戦が成立してやっと契約が成立した。その時、自分の小説が現実社会と無関係ではなく、爆弾が飛び交う中で私の小説が読まれることもあるのかもしれないと思った。契約の知らせとともにエージェントの人が送ってくれたメールには


『同じ本で育った人たちは共通の思いを分かち合う』という一文がそえられていた。

民族も言葉も年代も性別も違う人間が、どこかで出会ったとして、その時、お互いの心を近づける一つのすべは、どんな本を読んで育った人かということ、同じ本を読んでいたら、たちまちその人が身近になり、心をかよわせることができるでしょう。いつか自分の書いた小説を、そういう場面で誰かが挙げてくれたら、作家としてこんなに大きな幸せはない。

と、まあ、だいたいこんな内容の話でした。

物語が、宇宙からみたら地球にはどこにも線が無いんだという事実に、気づかせてくれて、人間の本当のしあわせは、心を通じ合わせることなんだということも、わからせてくれるのだと思います。

これからも、そんな物語を子どもに届けていきたいし、また新しく出会いたいと思います。

30日の日曜日は、地域のお祭りでした。
今回は、フリーマーケットに参加。
絵本を中心に雑貨などを売りました。前回は、旦那さんのプラモデルとかおもちゃがあったので、2万円くらい儲かったけど、今回は絵本が中心だから、たいしたことないと思っていたら、1万2千円くらいの売上、台風いつ来るかと落ち着かなかったけれど、ほんとうに来るのかなと思うほどのいい天気で、暑くて暑くて大変でした。
でも、昔、幼稚園の先生してた方や、エルサ・べスコフの「ウッレと冬の森」の訳者でもある小野寺百合子さんが仲人だった方など、いろんな方と、お話ができて、それが楽しかった。

長男も急遽便乗して、ゲームや漫画を売っていた。中学生や小学生がやってきて、いろいろ、おばさんにはちんぷんかんぷんのやり取りをしていたが、「やべ!フリマたのし!子どもかわいい!」とごきげんでした。

絵本は、運ぶのが重くて大変で、キャリーバッグに詰めて運んでいたら、重さでゴロゴロ、音がうるさかった。そしたら、しらない奥さんに、「病人が寝てるんだから、音をたてないで!」とすごい怖い顔でどなられた。そういいながら、その奥さんはお出かけになった。私は茫然とその奥さんの後ろ姿を見送っていたけれど、音をたてるなって言ったって、無理だよ。どうすりゃいいのよ、とぶつぶつ。仕方ないから、そろそろと時速1キロくらいで、運んだ。
病気はお気の毒だけど、今は真夜中でもない午前9時だよ。ずっとじゃないよ、5分くらいよ。何なんだ!まったく!あ~でもでも、あの奥さんはきっとイライラしてたんだ。忘れよ。と、気分を切り替えた。

でも、そういえば、ここ数年、お祭りの前に、「いついつ、お祭りをやります。その時間、騒がしいとは思いますが、ご協力お願いします。」てなことが書かれたお知らせが、くるようになってたなあ、私は、(まあ、ご丁寧に、大丈夫なのに)と思っていたが、うるさいって文句言う人がいるんだ!

なんてこった!お祭りって地域のコミュニケーションの場じゃないの。なんか、さみしいねえ~。

フリマやって、いろんな人とおしゃべりしたけど、子どもも、おばあちゃん世代の人も、話したがってる。「商売のじゃまよねえ~」なんていいながら、長ーく話しこんでたおくさん。孫が8人いてその一人一人のことを、楽しそうに話してたおばあちゃん。名前と電話番号書いたメモを渡してくれたおばあさんもいた。知らない人からそんなメモ、初めて貰った。相手がイケメンじゃないのが残念!

イケメンっていえば、隣にすわっている長男を見て、「お宅のぼっちゃん?あの子がこんなに、大きくなったの?」としばらく会ってなかった近所のおばちゃんに、「おにいちゃん、イケメンだねえ」と、ほめられた。親としてはちょっと嬉しい。そしたら、このイケメン、「お母さん知ってる?その子を昔から知ってる近所のおばちゃんの、イケメンに対するハードルの低さは驚くばかりって、なんかに、かいてあったよ。」とのたまった。

これを、謙虚というのだろうか。(おまえは、晴れときどき、イケメンだよ!)

27日は「絵本の会」でした。

今回は「昔話の絵本」について、「昔話絵本を考える」松岡享子著、(日本エディタースクール出版部)をテキストにして話し合いました。まずフェリクス・ホフマンの絵本、「七わのからす」(瀬田貞二訳、福音館書店)を読みました。それから、子どもに聞かせるグリムの昔話に入っている「七羽のからす」を読みました。

それから、みんなで、感想を言い合いました。一番多かったのは「絵本の方は絵に違和感があって、なかなか、話が頭に入ってこない」という意見、以前このお話を耳で聞いていた人は「絵が邪魔で、お話のストーリーが頭に入らなくて、受け取る印象が散漫になってしまった。」という意見もありました。

お話をより分かりやすくするために絵本にしたのに、その絵が、お話から本来受け取るものを、返って薄めてしまっている、もっというと、台無しにしている、これはいったいどうしてなのか。

詳しいことは、「昔話絵本を考える」に、わかりやすく書いてありました。

今回、おもしろかったのは、Mさんが「あかずきん」の絵本について話してくれたことです。

何年か前、子ども文庫の会から、「赤ぼうしちゃん」(マーレンカ・スチューピカ/絵、山本まつよ/訳)という絵本がでました。山本まつよさんが訳して新たに出す、あかずきんの本ということで、楽しみにしていたのに、見てがっかりした場面があるというのです。ずきんは今の子どもには合わないから赤ぼうしにしたそうですが、ここではそのことは論じません。問題は、あかずきん(ここでは赤ぼうしちゃん)が、おばあさんの家に入っていく場面です。

見開きの左に文、右に絵があるのですが、左の文には「おばあさんの へやへ はいってみると、ようすが とても かわっていたので、赤ぼうしちゃんは、『あらまあ、いつも おばあさんと いっしょにいると、とてもたのしいのに、きょうは なんだか、へんな きもちで、おちつかないわ』
そこで、おおごえで、『おはようございます』と いいましたが、へんじが ありません。ベッドのそばに いって、カーテンを あけてみました。すると、おばあさんは、ずきんを かぶり、かおを かくして とても へんな かっこうを していました。」とあるのですが、

右の絵は、もうカーテンがあいていて、どうみても、おおかみとわかるおばあさんが寝ていて、あかずきんは入り口で、もう、そのオオカミのおばあさんと目が合っちゃってる!
「これじゃ、だめなんです。こどものころ、あかずきんを絵本で読んでもらった時、部屋に入ったときは、わからなくて、カーテンをあけて、はじめておおかみのおばあさんをみるわけなんですけど、この絵じゃ、もうおおかみなのがありありとわかっちゃってる。それじゃ、サスペンスが半減しちゃうんです。」それで、子どものころ読んでもらったあかずきんの絵本はどうだったんだろうと、探していたら見つかって、(「あかずきん」大塚勇三/訳、堀内誠一/絵、福音館のペーパーバック絵本

あらためて読んでみたら、その場面、やっぱりおおかみだとわかる絵だったそうだ。持参してきてくれたので、見せてもらったら、おおかみのおばあさんが、あかずきんに背を向けてベッドに寝ていて、読者の方をみているけど、入口にいるあかずきんには、その顔が、まくらで見えない、という絵になっていたのです。Mさんの記憶では、カーテンをあけても、ずきんとかけぶとんで顔をかくしていて、目だけしか出てないと思っていた、というのです。

絵本を見ている人には、おおかみの顔がみえているんだけど、Mさんはそのとき、あかずきんになっていたから、まくらのかげにかくれていたおおかみがわからなかった、ということになるんです。物語から受けるインパクトが強いと、見ている絵とは別の絵を自分で作り上げ、それを心の中で動かしてお話を記憶するということがあるのかもしれない、とおもいました。

だから、昔話絵本は、どの場面を絵にして、どう見せるかも大切だけど、テキストも大事になってくる。

昔話絵本の存在を全否定するわけではないけれど、有名な作家が作った絵本だからとか、有名書店が出してるからとかで、選ぶのではなく、そのつど,検証していくことがたいせつ。今回「昔話絵本を考える」を、読みなおしてみて、やはり、昔話は語ったほうが、自由にイメージできて、そのお話の伝えたいことがダイレクトに伝わるのだということを、改めて実感した。

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